out of control  

  


   22

 偵察ってほどの仕事もしてねえが、真昼間からあいつらが動くようになったってのは大問題だ。
 ネヴァサに帰る道中でトパックたちに再会し、考える間もなくセネリオがリワープで飛んで、ネサラと俺がトパックとサザを担いで戻ることになった。
 ベオクってのは高いところを怖がるもんだと思っていたが、そうじゃねえヤツもいるんだな。
 トパックは大喜びではしゃぎ回るもんだから、落とさねえようバランスを取るのに気を遣ったぜ。ダチのサザの方はネサラの背中だが、あっちはあっちで石像みてえに固まってるし、どっちが楽かって話だな。
 ネサラも疲れただろうが、俺も疲れた。どの途夜通し飛ぶわけにも行かねえし、途中で廃村になったらしい村に下りて、一泊することにした。
 この村も壊滅したのかと心配したんだが、違うみてえだな。泥の怪物の気配はなくて、荷物も綺麗に消えている。恐らく男手がなくなった上に賊が出るようになって、ほかの村に移住したんだな。
 町や村なんてものは人がいなくなったらあっという間に荒れて寂れる。いくつか見回って比較的使えそうな家に落ち着くと、俺たちは長く使われていなかった暖炉と煙突の手入れをして火を起こし、ようやく落ち着くことができた。

「あー…腹減ったなあ」
「トパック、鷹王…鳥翼王も鴉王も自分は食わずに非常食を分けてくれたんだぞ。ちょっとは我慢しろ」
「わ、わかってるよ。大体、おまえだって腹が鳴ってるじゃんッ」
「鳴ってても俺はおまえみたいに無駄口叩いてない」

 俺が濡れた頭を拭いてやる間にも落ち着かずにもぞもぞ動いて文句を言ってるのはトパックだ。
 仲が良いというかなんというか……よくこれだけ言い合いをしていて飽きねえよなあ。俺も昔はヤナフとこんな感じだったのかなんて思うぜ。

「悪いな。この辺りじゃウサギもいねえし、もうちょっと明るけりゃなにか狩って来てやれたんだが」
「あ、ううん! ちがうって。ねだってるわけじゃないんだ。譲ってもらった干し肉も干し杏も美味かったしッ。ごめんな!」
「………あの巣のルツカを食うか? 腹の足しにはなると思うが」

 慌てて俺を見上げて謝るトパックに、それまで暖炉の前で黙って座っていたネサラが問いかける。煙突の掃除はこの中で一番小柄なトパックがやったんだが、ネサラが言ってるのは煙突の中に作られていて物陰に移してやった巣の鳥だ。
 鳩に似てるがもう少し小さくてずんぐりした鳥で、必ずつがいでいる。この季節なら痩せていてそれほど肉はついていないだろうが、こんな場合だからな。
 だが、意外なことに食い盛りのトパックは音がしそうなほど首を横に振って言ったのだった。

「そんな、やっと冬が越せるってのに食えねーよ! かわいそうじゃん。ネヴァサまで行けばさすがになんかあるだろうしさ。ごめんな、我慢するから」
「そうか?」
「うん!」

 よしよし、いい子だな。
 頭を撫でてやると照れくさそうに笑ったトパックは大きな欠伸をして毛布の中に転がった。
 騒いだら今度は眠くなったんだな。健康で結構なことだぜ。

「おい、トパック! 火の番の順番も決めてないのに」
「んー…テキトーに決めて起こして。眠ぃ………」
「ったく、もう」

 サザは頭を抱えて大きなため息をつくが、相棒はもう夢の中だ。手入れを終えたナイフを腰のベルトに戻すと、申し訳なさそうに俺の方を見て頭を下げた。

「その……すまない。俺がこいつの分も働くから」
「気にするな。こんな時は大人に甘えておきゃいいんだよ」
「俺はガキじゃない」

 むっとして言い返す辺りが思いっきりガキなんだけどな。
 トパックと言い合いをしてる時は年相応の顔になるくせに、一人になったとたんこれだよ。
 必死に背伸びしてるだけじゃねえ。警戒を残した眸も、物腰も、確かに大人びてる。
 ………苦労してきたんだろうな。なんつーか、こいつを見てると昔のネサラを見ているようでつい声を掛けたくなるぜ。
 もっとも、ばりばりに警戒されちまってまともな会話も成り立ってねえけどよ。

「ネサラ? どこへ行くんだ?」
「狼の遠吠えが聴こえた。ちょっと外の様子を見てくる」

 どうしたもんか考えていると、それまでおとなしく暖炉の前に座っていたネサラがいきなり立ち上がった。
 外の様子ったって、夜目のきかねえネサラじゃろくに見えねえだろうに。

「夜は俺の方がまだ見えるだろ。代わるからここにいろ」

 杖で治療しようが、骨を折ったあとってのは熱が出るもんだ。この冷え込んできたってのにまったくこいつだけはしょうがねえな。
 そう思って立ち上がったんだが、むっとしたらしいネサラが「だから、」と口ごもり、視線をそらしてぼそぼそと続けた台詞に今度は俺の方がため息をつきたくなったぜ。

「………小用だ」
「あ?」
「覗く趣味でも?」

 睨みながら赤くなったネサラに笑いたくなったが、ここで笑ったら今度はヘソを曲げられるだけじゃ済まねえな。
 了解のしるしに「早く戻れよ」と片手を上げると、ネサラはぷいと顔を背けて出て行った。
 やれやれ、「小用」だとさ。便所なら便所って言やあいいだろうに、お上品なこった。

「おまえはいいのか?」
「え?」
「行くならついて行ってやるぜ? 暗くなったし、ネサラが言うように狼でもいたら事だからな」

 膝を抱えてぼんやりしていたサザに訊くと、サザは意外なことを言われたように目を瞬き、いつもの仏頂面に戻って言う。

「俺は一人で行ける。そういうのが必要なのはトパックだろ。今日は保護者のムワリムさんもいないし」
「ムワリムか。そういや、いつもあの坊主のお守りをしてたな。元気にしてるのか?」
「ああ。今回も出掛けに『坊ちゃんをお願いします』って何回も言われた。その、二人とも無事でってのも言われたけど」

 そう言って小さくため息をついたサザについ笑っちまいそうになる。
 ムワリムは獣牙族の虎で、元奴隷だった男だ。すぐに血の気が上る獣牙族にしちゃ冷静で、ラグズ奴隷解放運動組織を立ち上げて首領になったトパックを本当に可愛がって補佐していた。
 最初はネサラとニアルチみたいな関係なのかと思ったが、ムワリムの方がもう少し過保護だな。もっとも、ニアルチの場合は過保護にしたくてもネサラが振り切って保護者の手から飛び出してるんだが。
 トパックもただの子どもかと思ったらそうじゃなかった。あいつも女神の塔に登った一人だが、甘えてやるのも孝行だってのをちゃんと知っていたしな。
 トパックが塔に入ることが決まった時、あの男はどれだけ自分も行きたいと思っていたことか。
 だが、『おまえはここにいなくちゃダメだ。だって、おれが帰った時に困るだろ?』と笑ったトパックに、あいつは膝をついて顔を上げないまま、頷いた。
 それは帰る場所を守ることも大切な役目の一つだと知っていたからこそだったろう。

「そうか。じゃあおまえも無事に戻らねえとな。巫女もきっと心配してるぜ」
「そんなの、あんたに言われなくたって……」

 がしがしと頭を撫でた手を振り払ってそっぽを向くが、いくら無表情を取り繕ったところで照れてるのは丸わかりだ。ネサラに比べりゃこいつの表情なんていくらでも読めるさ。

「そうだったな。じゃあおまえも寝ろ。交代の時間が来たらたたき起こすからな」
「わかってる」

 もうぐっすりと眠り込んでるトパックの横に転がると、俺は目をこするサザの身体に外套と、もう一枚別の家から拾ってきた毛布をかけてやった。
 薪はさっきくべたばかりだし、しばらくは火ももつはずだ。
 目を閉じたサザから寝息が聞こえるようになるのを待ってから、俺は音を立てないように立ち上がってそっと部屋を出た。
 戻ってこないネサラが心配だってのもあるが、俺自身も小便したくなったんでな。
 外に出ると、驚くほど静かだった。
 今夜は雪も降ってねえ。ただぼんやりと白い月が雲のない空に浮かんで、頼りない星の光に包まれていた。
 ベオクが見りゃもう少し違う感想なんだろうが、俺の目じゃその程度だ。ヤナフは夜の空も綺麗だって言ってたから、本当に綺麗なんだろうな。
 とりあえず、ガキを二人で残してる以上、あんまり離れるわけには行かねえ。褒められた行為じゃねえが物陰で小用を足すと、俺はまだ戻る様子のないネサラの気配を探した。
 あいつのことだ。本当に小用だけで外に出たなんて思っちゃいない。
 様子がおかしいから気になってんだよ。
 どこがどうってわけじゃねえが……クソ、いねえな。
 とりあえず、獣の気配は近くにねえ。それだけ気をつけながら廃墟になった村の奥まで進むと、ぼんやりと金色の光が見えた。
 なんだ…? あそこか?
 声を掛けようかと思ったが、本当に用足しの最中だったらあとで盛大に厭味を言われそうだ。だからなるべく音を立てずにそこに向かうと、扉が外れて落ち、女神像が倒れたままの教会の中にネサラがいた。
 なんだ。術符じゃねえか。それが光ったんだな。

「こんなとこまで来て小便か?」
「ティバーン……」

 振り向いたネサラがばつが悪そうに握っていた術符をしまう。

「どうした? ここにも倉庫があるのか?」
「……木の板に鉄枠をはめ込んだものだから、術符でどうにかなると思ったんだ」

 あれは重いしな。そりゃ、こいつ一人じゃ無理だろ。光の術符も役に立たねえだろうし、しょうがねえな。

「そういう時は俺を呼べよ。……ここだな。しかし、ベオクってなどうしてこう教会に隠し部屋を作りたがるんだ?」
「貴族の屋敷は教会じゃなくても作ってるぞ。教会が好きというか……拠り所なんだろう」
「拠り所?」
「ラグズは自分自身を信じている。ベオクだってそうなんだろうが、なにかあった時には祈る対象が必要だ。……祈ることでなにかが変わるわけじゃなくても」
「………」

 つまらねえことだ。そう言い捨てるのは簡単だったが、今の俺には言えねえ。
 こいつらと……鴉と住むようになったからな。

「開けるぞ」

 小さな取っ手に指を引っ掛けて言うと、ネサラが頷いて場所を開ける。枠は鉄だが、前の村の教会のやつよりは軽いな。
 力を込めて引き上げるが、どうやら中は無人のようだった。

「手燭かランプぐらい持って来りゃ良かったな」
「燭台ならある」

 そう言うとネサラは女神像のそばに転がっていた大きな燭台から蝋燭を抜き取り、火打石で火を灯した。
 湿気ちまったのか一回じゃ点かなかったが、何度目かでようやく辺りが明るくなる。
 溶けた蝋に気をつけつつ地下に降りたが、やっぱり無人だった。それになにも残ってねえ。あるのは穀物を入れていたらしい木製の空き箱だけだ。

「……誰もいないか」
「ああ。良かったな」

 なにも言わないが、ネサラが前の村のことを引きずっていたのはわかってる。だから笑って言ってやると、ネサラは小さく頷いてなにもない地下を見回した。
 祈る対象、か……。
 ノクス城に着いてあの墓を見た時、ネサラはほっとしたような顔をしていた。
 あの城主の気持ちは有難い。だが正直俺は、墓についてはネサラほど思い入れがあるわけじゃねえ。
 俺たちラグズは大抵がそうだ。
 生まれて、生きて、やがて死ぬ。
 それが平穏な人生であっても、戦いの結果であっても。
 年寄りだけじゃねえ。若かろうが、幼かろうが、どんなに耐え難い別れでも必ず人は死ぬ。
 それは誰だって同じだ。
 まして俺たちは鳥翼族だ。魂はいつだって空にある。
 会いたくなったら、飛べば良い。
 だから俺たちには墓はなかった。もちろん「遺体を埋める場所」っていう意味での墓地はあるが、それは鷺も同じだ。
 だが、鴉は違うんだよな。
 貧しいことだけが理由じゃねえ。血の誓約で多くの同胞が奴隷にされ、無残に命を奪われ、望まない戦場にも行かされた。受け入れ難い別れが多くて、遺された者の心の慰めのために、墓が必要だった。
 だが、セリノスに墓はねえ。それに、今は作る気もねえ。
 いつかは必要になるだろうが、まずは国の基盤や生きてる者が住むための施設を充実させる方が大事だからな。
 そう言うと鴉たちは納得したが、その代わりキルヴァスを墓地にしたいと言い出した。
 墓があれば、そこに花を手向ける者がいる。
 そうすれば、緑もない。花もない。赤茶けた砂と岩ばかりのあの島も、少しは淋しくなくなるだろうから。セリノスのように鮮やかな風景はなくても、眠る者にも、この緑の欠片だけでも見せてやりたいから――。
 そう言われて俺はなにも言えなかった。
 辛気臭え話だ。だからやめろとか、とてもじゃねえが……。
 今でも迷ってるさ。どう答えりゃ良いのかってな。だが、もうためらわずに俺たちと生きて欲しい。
 気持ちだけじゃどうにもならねえことが多いが、俺は心からそう思ってるんだ。

「ティバーン?」
「ん?」

 わざわざ壁まで調べて満足したらしい。戻ってきたネサラが俺の前に立って顔を覗きこんでくる。
 溶けた蝋燭の蜜蝋だけじゃない。鼻に感じる甘い匂いはネサラの体臭だ。
 参ったな。まさかもうラフィエルの呪歌の効力が切れてきたのか?

「大丈夫か? 本当は腹が減ってるんだろう?」
「まあな。だが、ガキを飢えさせるわけにゃ行かねえだろ」
「それはそうだが……」

 頼りない蝋燭の明かりの下で、ネサラの肌が白く浮かび上がって見える。髪は蒼いし、黒い服を着てるから余計に白く見えるんだよな。
 このまま見ていたら妙な空気になっちまいそうで、俺は先に上へ戻りながら言った。

「気にすんなよ。思い出させんな。どうしても腹が減ったらおまえを食っちまうかも知れねえぞ?」

 もちろん、普通とは違う意味でな。
 きっと膨れっ面になって文句を言う。
 そんなつもりだったが、ネサラの返事はなかった。

「ネサラ?」

 怪訝に思って振り返ると、ネサラは胸を押さえて首をかしげてやがる。
 おいおい、もしかして具合が悪いんじゃねえのか?

「どうした?」
「いや、べつに……」
「べつにって顔じゃねえだろ」

 慌てて駆け下りて抱いた肩が暖かい。体温が低いこいつのことだ。冷え切ってても不思議じゃねえのに、やっぱり熱が出てるんじゃねえかよ!

「ったく、ほら。おまえも寝ろ! 今夜の見張りはしてやるから」
「そんなこと頼んじゃいない」
「いいから来い!」

 肩を抱いたまま教会を出た勢いで蝋燭が消える。相変わらず風はねえな。
 蜂蜜と酒が残ってるから、後で暖めて飲ませるか。蜂蜜を出したらあいつらにも舐めさせてやらなきゃならねえだろうが、それはしょうがねえ。

「気分でも悪いのか?」
「いや」

 いつまでも胸元を押さえてるネサラが心配になって今度は俺が覗き込むと、首をかしげたまま、ネサラがゆっくりと視線を上げて呟いた。

「前は、あんたがいきなり変なことをするからドキドキした」

 雲がないせいか、白い月の光が明るくて、夜だってのにネサラの顔がいつもよりはっきりと見える。

「今は、なにもしてなくてもドキドキする」
「……あ?」
「決まって、あんたが触ってくる時だ」

 俺の鼓動まで跳ねた。
 ………って、いきなりなにを言い出したんだ? こいつは!

「条件反射になっちまったのかもな。迷惑な話だ」

 しかも、思いっきり本気でため息ついてるし!
 それは…もしかして、もしかするんじゃねえのか?
 茶化しついでに口づけの一つもしてやろうと思ったのに、俺の方こそまるでウブなガキのように動けなかった。

「なにをやってる。戻るぞ。なにかあるわけじゃないが、あんな子ども二人だけにしておけないだろ」
「あ、ああ。わかってるさ」

 ネサラは自分で言った言葉の意味にも気がついてないんだろうさ。何事もなかったように平然と歩き出した。
 俺だけがいつまでも意識しちまって、今度はこっちが赤面させられる。
 ――クソ!!

「畜生、本気で腹が減ったぜ!」
「見栄をはるからだ。一日や二日の断食じゃ死にはしない。諦めるんだな」

 笑ってんなよ。そっちの意味じゃねえって。
 どうせ言ったところでわかりゃしねえだろうが。
 けど、そうだな……。今回のことが落ち着いて、セリノスに帰ったら。そして今回の発情期が終って、まだこの衝動が落ち着かなかったらだが、―――ニアルチに会いに行こう。
 俺もネサラもなにかするのに保護者の許しがいるような歳じゃねえけどよ。
 もちろん、俺自身の心にも向き合ったあとでだが。
 それが鴉たちと生きる約束事の一つだろう。
 ネサラが処刑を反対したあの鷹の男にも、その覚悟を問う必要がある。なにより、罰だけじゃなにも変わらねえからな。

「やっぱり疲れてたんだな。二人ともよく寝てる」
「気が張ってたんだろうよ。セフェランのこともあるしな」
「セフェランか。あいつが黒幕ってのはないはずだ。それなのにこんなタイミングで失踪するなんて、なにを考えてるんだろうな」
「皇帝には会えなかったんだろう? 案外、そっち関係かも知れねえぞ」
「………」

 二人の毛布を直してやりながら考え込んだネサラに、俺は殊更明るい声で言った。俺は心配したってしょうがねえもんは心配しねえ主義なんだ。
 それに、あの男がなんの理由もなく失踪するはずがねえってのもわかってる。
 自分で自分の役割を決めた。それならそれを違えるはずはねえ。
 鷺ってのはそういう連中だ。

「あの渓谷の様子だと、もうサナキのところへ確かめに行く時間はないな」

 長い沈黙のあとでため息をついたネサラはそう言って片膝を抱えて、そばの薪を数本暖炉に投げ入れる。

「心配いらねえよ。そら、飲め」
「またこの酒か……」
「蜂蜜も入れるか?」

 半分ほど中身の残ったスキットルを投げ渡して言うと、ネサラはうんざりとため息をついて首を横に振った。

「俺はいらん。明日こいつらに舐めさせてやれ」
「わかった。そうしよう」

 いかにも厭々といった様子でネサラがスキットルを煽り、俺に投げ返す。意外に飲んだな。案外こいつも腹が減ってるんじゃねえか?
 そう思ったが強い酒に喉と腹を焼かれて気だるげなため息をついたネサラは、トパックのむにゃむにゃとはっきりしねえ寝言に笑って赤毛を撫でてやる。
 子どもを持つつもりはないと言ってるくせに、子ども好きなんだよな。
 結局、俺たちは一晩中黙って火の番をした。まさか本気でガキと交代するつもりはなかったし、戦士だからな。一晩や二晩の徹夜が堪えるほどヤワでもねえ。
 俺としちゃネサラは寝かせたかったんだが、こんな場面でおとなしく言うことを聞くはずがねえから仕方がない。
 聞こえてくるのは遠い狼の遠吠えと、暖炉ではぜる薪の音だけだ。いつもなら余り得意とは言えねえ沈黙も苦にならなかった。
 本当に、我ながららしくねえぜ。どうなってんだか。
 疲れてるだろうになにも言わずに焚き火を見つめる白い横顔を見ながら、俺は夜明けを待った。

 結局一睡もしないまま、俺たちはまた同じ組み合わせで廃村を飛び立った。
 火の番で起こさなかったってんでサザは機嫌が悪かったが、トパックは腹が空いてそれどころじゃなかったんだろう。うっかりどっかで落としたんじゃねえかと確かめたくなったぐらい静かだった。
 ネサラは変わらない。ただ顔色は良くねえな。
 熱が下がってないようで今朝も手は暖かいのに頬は白くて、心配になった。あんまり調子が悪いようなら、ネヴァサに戻って誰かに杖を使ってもらうか。
 そう考えながら二度の短い休憩を挟んで飛び続けて、夕暮れ前に俺たちはなんとかネヴァサにたどり着くことができた。
 先に帰ったセネリオがあらかた説明しておいてくれたから助かったぜ。俺たちが付け足すような情報はほとんどなかった。
 ただ、やっぱり治安は悪くなってるな。ネヴァサにほど近い町でも賊が現れて、アイクたちで片付けに出たそうだ。
 泥の妙な怪物は出るわ、賊が入り込んで来るわ、そりゃあ領民も不安だろうよ。領民の中からも賊に加担する者が現れ始めてるそうだが、それも無理もない話だ。
 ただ、ネサラの策の効果ももう出始めているらしい。これはトパックたちが飯をがっついてる間に聞いた話だがな。

「それじゃあ、今夜は巫女もその町にいるんだな?」
「はい。グレイル傭兵団も残ってくれています」

 ここはデイン王ペレアスの私室だ。俺の問いかけに頷いて答えたペレアスに勧められた茶を飲みながらネサラも尋ねる。

「捕えた賊は?」
「牢に入れました。元は近隣の村人だった者も多いので、極刑に踏み切ることはできません。ただ、罪の重い者はどうしようもありませんが……」
「救援物資が届くにせよ食料には限りがある。綺麗ごとじゃ済まないぞ」
「はい」

 春は近い。雪が溶ければ陸路でも運べるんだが、その分賊に狙われやすくもなる。本当に今が正念場だぜ。
 厳しい表情で言ったネサラに、ペレアスも緊張した面持ちで深く頷いた。

「ハールも無事に役目を果たしてくれたらしいな」
「ええ。鴉王、あなたのおかげです。それに、ジルとリュシオン王子も……。パルメニー神殿の方は吹雪いてしまって今日は戻れそうにありませんが、ハールとセネリオが迎えに行ってくれましたからご安心ください」
「リュシオンはああ見えて意外に丈夫だ。心配なんかしてないさ」

 口ではそんなことを言うくせに、ネサラの表情には確かにほっとした色がある。俺は本当に心配してねえぜ。神竜騎士夫妻の実力は俺もよく知ってるし、セネリオまで加わってるんだからな。

「それで、例の貴族は動けるんだな?」
「はい。鴉王の書状を受け取ったセルモノー侯爵がほかの二人に知らせてくれて、続けて返書と軍資金が届きました。領民の安全を取り戻すため、全力で取り組んでくれるそうです」
「ま、脅しも強力だったがチラつかせた餌も大きかったからな。このあとの手はずは?」
「整えています。領地の再編も踏まえて、制圧した土地を与えるんですね」

 素直なペレアスに笑って、ネサラは差し出された当の貴族からのものらしき文書を読んで満足そうに頷いた。
 そうそう、このツラだ。いかにも策士な企み顔な。
 根はお人好しの癖に、搾り取る時は徹底してやがるからな、こいつは……。

「それを見れば商人たちも動く。そうなりゃ当面の治安は問題ない。賊とやつらの私兵が戦うだけの話だ。まあ、戦地にされる町や村はたまったもんじゃないだろうが、どうせ賊には勝ち目はないし、連中も自分の領地になるなら整備を進んでやるだろう」
「はい。そうだと良いんですが」
「するさ。学校を作ったり新しい土地の開墾に乗り出したり、すべては自分の領地を豊かにするためだからな。親からぼんやり引き継いだものじゃない。自分の手で勝ち取ったものだからこそ必ず手を掛ける。人の心理ってのはそんなもんだ。せいぜい金を遣わせてやれ。国庫の金はもっと有意義なことに遣わなきゃならん」
「そうですね……。やらなくてはいけないことがまだまだたくさんあります」

 ネサラの台詞に微笑んだペレアスの横顔に、歳に似合わねえ疲労が滲んでいた。
 二十代ってのは俺たち鳥翼族から見りゃまだまだ雛だが、ベオクとしちゃ大人なんだよな。見た感じネサラと同じか、もしかしたらもうちょっと上になるのか?
 頼りねえ雰囲気からして下に見えるが、たぶんそれぐらいだよな。
 やっとやるべきことが見えても自分で動けねえ立場ってのもきついだろうが、やれることが見つかったならそれはまだしも幸せってもんだ。

「ペレアス、もう少しだぜ」
「え……」
「今が踏ん張りどころだ。わかってるだろうな?」

 だから、倒れんな。
 そういう意味で言ってやると、どうやら通じたらしいな。
 ペレアスは見慣れた穏やかな笑みを深くして、だが視線に確かな意志を見せて頷いた。

「はい。大丈夫です」

 よしよし、それでいい。
 ったく、血筋だけで王位が決まるってのも考えものだぜ。一国の王の身体が弱いなんざ、本来だったらあっちゃならねえことだと思うんだがな。
 ただでさえ雑事の多いベオクの王位だ。こいつには荷が勝ち過ぎてるぜ。
 まあ、本人もそれがわかってるからあんな弱音を吐いたんだろうけどよ。
 血筋の責任か……。出生のことを知るまでは普通の庶民として生きていたそうなのに、ベオクにはベオクの苦労があるんだな。

「わかったならいい。もう寝ろ」

 青い巻き毛を撫でて言ってやると、ペレアスは小さく笑って「はい」とまた頷いた。
 とりあえず、今の俺たちにできるのはここまでだ。そうケリをつけて立ち上がると、ネサラも残った茶を飲み干して腰を上げた。

「あの、お二人のおかげで鳥翼族の皆さんが協力してくださって、今回力を貸してくださる方がこちらに向かってくれているそうです。本当になんてお礼を申し上げれば良いか……」
「礼は片付いてからにしろ。それに俺はティバーンのようにお人好しじゃない。本当の意味でのただ働きはしないさ」
「は、はい。なにかできることがありましたら必ずお礼をいたしま……あ。もちろん無理なことは無理だと申し上げますが!」

 よしよし、ちゃんと前回の失敗を覚えているな。慌てて付け足したペレアスに、ネサラは「考えておく」と笑った。
 デインにできる礼か。……ちょっと思いつかねえな。
 今のところめぼしいのは、家具の取引ぐらいか? あとは酒だが、ネサラは興味なさそうだ。
 まあこいつのことだから、思いついたらなにかふんだくるさ。
 ペレアスの部屋を退出すると、ようやく戻れたらしい。まだ鎧に身を包んだままのタウロニオ将軍が最上位の礼を取って俺たちを出迎えた。

「ご無沙汰しております。鳥翼王、鴉王」
「おう、久しぶりだな。なんにせよ、無事でなによりだ」
「もったいないお言葉です。アイク将軍がお二人のご来訪をお伝えくださいました。この度はデインのため、貴いお二人にまでご迷惑を……」

 相変わらず尻が痒くなるようなことを言いやがるぜ。黙ったままのネサラの代わりに頭を下げたままのタウロニオを立たせると、俺は重い疲れを隠せずに老け込んだ肩を鎧越しに叩いて言った。

「困った時はお互い様だ。いつかそんな日も来るかも知れん。そのつもりであんたが若い連中を鍛えてくれ。それがなによりの礼だ」
「は…っ。もちろんでございます」

 デイン中を走り回って疲れてるだろうに、わざわざ俺たちに挨拶するためだけに起きてここで待っていたのか。……大した忠臣だぜ、まったく。
 ペレアスも、この将軍に応えられる王にならなけりゃいけねえな。今回のことを乗り越えりゃ少しは自信もつくだろう。

「タウロニオ将軍。あんたはこのデインの要の一人だ。身体をいとえよ。肝心な時に倒れたらデイン王は本当に頼る先がなくなる」
「もったいのうございます」

 心のこもったネサラの労いの言葉にかしこまるタウロニオに、まだしばらくペレアスが起きているだろうことを告げて俺たちも部屋に戻った。
 ペレアスの部屋に行く前に飯と風呂だけは済ませられたが、やっぱり疲れはしたな。一人だったらこの程度どうってことはねえんだが、今回はガキどももいたからしょうがねえ。
 燭台の蝋燭も少ねえし、最初はあんなに寒々しく感じたこの城も、野宿したあとは充分落ち着ける良い場所だと思えるぜ。
 先にネサラを部屋に送ってから寝るかと思ったんだが、ネサラは自分の部屋に入る様子もなく着いてきた。
 もちろん甘い理由じゃねえ。中で俺が戻るのを待っていたこいつらの気配を読んだからだ。

「おお、やっと帰ったか!」
「勝手にすみません、どうしても鳥翼王と話してから寝るって聞きませんので」

 スクリミルとライだった。ライは遠慮がちだが、スクリミルは堂々とソファに陣取ってカゴの果物までもりもり食いやがって、振り返らなくてもネサラが眉をひそめてるだろうと想像がつく。

「まあ二人とも座れ」
「あんたに言われなくても、ここはティバーンにあてがわれた部屋なんだがな」
「す、すみません、鴉王。あの、女官があなたの服を洗濯したとのことで持って来ましたので、こちらに預かってます。白い服もよくお似合いですねえ、あはは」
「見え透いた世辞はいらん」

 ああ、そういやあんまり汚れてたんで風呂に入ってる間に洗わせたんだよな。もう仕上げて来たとはさすが城の洗濯場だ。
 ネサラはそっぽを向くが、スクリミルは不思議そうに首をかしげて言った。

「貴様、あれほど鷺と仲が良いのに白い服が似合ってると言われてもうれしくないのか?」
「あのな……。鷺と仲が良いのと同じような服を着て似合うかってのはまたべつだろ」
「そんなものか? まあ良い。小さな軍師が言っていたが、本当に真昼間から堂々とあいつらが動いているのか?」
「堂々としているかどうかはわからねえが、本当の話だぜ。俺もこの目で見た」
「……わけがわかりませんね」

 まったくだ。俺もわからん。
 ライが引いた椅子に座りながら頷くと、ネサラも俺に続いてソファに腰を下ろして落ちかかる前髪をかき上げた。

「鴉王、貴様にもわからないのか?」
「どうして俺に訊く?」
「なんとなく、貴様なら知っているように思うからだ。俺が知らないことを貴様はなんでも答えるからな」
「スクリミル〜! あの時と今はまた違うだろお!?」

 機嫌の良くねえ雰囲気のネサラに耳をへたらせたライが分厚い肩を揺さぶるが、スクリミルは堪えた様子もなく真面目な顔でネサラを見る。
 こいつのこういうところは嫌いじゃねえんだがな。ここでうっかり笑ったら今度は俺が睨まれちまうから、そこは我慢する。

「女神の塔に向かう道で俺が教えたのは、言わば世間の常識というやつだ。今回の話といっしょにされちゃ困る。ライ、おまえも副官なら副官らしく仕事をしろ」
「はい! いやあ、おっしゃる通りで」
「しかし、このことはライに訊いたところでわからんだろう?」
「いいからもう黙ってろ!」

 ははは、ライも大変だな。
 こんなところを見ていると、本当にあの前獅子王も昔はこうだったのか知りたくなるぜ。

「残念だが、ネサラの言う通りだ。セネリオが説明したなら、俺たちから出せる新しい情報はなにもない」
「ふーむ、そうか。残念だ。ベグニオンの宰相も姿を消したというし、どこも問題だらけだな」
「大きな戦争の後だ。問題が多いのは仕方がねえさ」
「ベオクの社会のことはよくわからんが、早く片をつけたいものだな。俺も長々と国を空けて叔父貴にお小言を貰いたくはない」
「まったくその通りだ! そういうことで、さあスクリミル、とにかくオレたちも寝よう!」

 しみじみ頷いたスクリミルが太い腕を組んで大きな息をつき、やっと立ち上がった。ライはこの隙を逃すまいとぐいぐいと扉の方へスクリミルの背中を押す。
 その必死っぷりがどうにも可笑しくて、笑っちゃ悪いが笑いたくなるぜ。

「わかった、わかった。まったくうるさいヤツだ。では鳥翼王、鴉王、俺はこれで寝るぞ」
「おう、腹を出すなよ」
「喉は鳴らしてもいいが、ほどほどにしてくれ。俺の部屋まで響きそうだ」

 よっぽど根に持っているらしいネサラにライと俺は笑ったが、スクリミルは生真面目に言いやがった。

「屋根の下でまで化身して寝る趣味はないから心配いらん。それより貴様もよく寝ろ。今日はいつもにも増して顔色が白い。貴様に倒れられたら皆が困るんだからな」
「大げさだとは思うが、褒められたと思っておくさ。おやすみ」

 言われてみれば確かに白いな。
 俺もこいつの顔色を見慣れちまってるから、スクリミルに言われてドキっとしたぜ。

「ではお二人とも、オレたちはこれで失礼しますね」

 最後には引きずってるのか引きずられてるのかわからねえライとスクリミルを見送って、二人の気配が遠ざかるのを待ってから俺は大きなため息をついた。

「あんたも本調子じゃなさそうだな」
「俺だって疲れることはあるさ。だがまあ、倒れたりはしねえから心配すんな」
「はン、厭味かね?」

 がしがしと頭を掻いて言うと、そっぽを向いたネサラが暖炉のそばまで行ってかちゃかちゃとティーセットを触りだす。どうやら寝る前の茶を淹れてくれるらしいな。
 こいつも疲れてるだろうに。
 肘掛に頬杖をついて眺めていると、ネサラの黒衣の横に俺の上着と赤い腰帯、バンダナも同じように綺麗に洗濯されて吊るされていた。
 ネサラの黒衣は極上の絹織りだからまだしも、俺の上着は丈夫なことが取り得の分厚い生地のものだ。王宮つきの職人も自分がまさかこんなものを洗うなんて思ってなかったんじゃねえか?
 そんなことを考えてつい笑っちまう。

「なにか面白いか?」
「いや、王宮の職人がどんな顔で俺の上着を洗ったのかと思うとな」
「……趣味が悪いぞ」

 ネサラが押してきた銀のワゴンから不思議な匂いが漂ってくる。この辺り特有の濃いバター茶にはもう飽き飽きしてたから有難いな。よく気のつくやつだぜ。

「寝る前におまえの淹れた茶が飲めるのは悪くねえな」
「そんなことを喜ぶなよ。言っておくが、ニアルチやシーカーが淹れたみたいには美味くないぞ」
「おまえが淹れてくれたってだけで充分だ」

 まるでベオクの給仕のように優雅な仕草でカップを置いたネサラが、テーブルのランプを引き寄せて自分もソファに腰を下ろす。
 茶だけ置いてさっさと部屋に帰りゃいいものを、わざわざ自分の分まで淹れて付き合ってくれるあたり、優しいな。
 もちろん、それだけが理由じゃねえだろうが。

「良い匂いの茶だな。どこのやつだ?」
「……ベグニオンだ。クリミアの北で取れるお茶の葉が一番有名だが、ベグニオンにも良い茶畑がある。もっとも、これはそれだけじゃなくてちょっと手を加えてあるが」
「匂いか? 確かに変わってるが、悪くねえ。なにかの花みたいだな」
「ベグニオンは特に貴族文化が発展している。お茶一つとってもいろいろ種類があってね。ほかにも色んな匂いをつけたものがある。目隠しをして匂いを嗅いで当てる遊びもあるしな」
「それで遊びになるのか?」

 外すやつがいなけりゃ遊びにならねえだろうに。一口飲んでそう言うと、ネサラもカップに唇を寄せながら笑った。

「大抵のベオクは俺たちほど鼻が良くない。だから遊びとして成り立つんだ」
「なるほどな。鼻が利かないなら利かないでそういう遊びもできるわけだ」
「そういうことさ。ほかにもいろんな遊びがある。カードもそうだし、あんた向きなら利き酒とかな。どこの土地の酒かとか、銘柄を当てたりするんだ」
「そいつァ無理だ。俺は飲めりゃそれがどこのどんな酒かなんてろくに気にしねえからな」
「ったく、安酒で満足するなよ。仮にも王のくせに」
「値段なんか関係あるか。酒なんざ誰かが美味いと思えばそれが銘酒だ」

 寝る前にぴったりの少しぬるめの茶を飲み干すと、俺はゆったりと長い脚を組み替えたネサラの横顔を見た。
 相変わらずの落ち着いた表情だ。今はなにを考えてるんだかな……。

「なんだ?」

 視線も向けずにネサラが訊く。いつものネサラだ。
 整った白い横顔を見つめながら、俺は簡潔に切り出した。

「なにがあった?」

 切れ長の目は動かねえ。いつもと同じ様子で手の中のカップを見るだけだ。

「おまえは自分が思うほど隠し事は上手くねえ。少なくとも俺には通じねえぞ」
「………」

 まだ表情は変わらねえ。だが、ここで許しちゃ意味がねえからな。
 俺は声を低くして黙ったままのネサラに言った。

「前に言ったな? 必要だと思えばおまえがどんなに隠したいことでも俺は暴くと。今でもその気持ちは変わってないぜ」
「ティバーン……」

 カップを置いたネサラがため息のような声で俺を呼ぶ。いや、違うか。俺の名前を呟いただけだな。
 それが妙に胸に迫ったような気がして、俺は一瞬言葉に詰まった。
 同時に、軽い眩暈がする。

「疲れたのか?」

 やっとネサラの顔がこっちを向いた。
 そうみたいだな。言うのは簡単だが、ネサラよりも先に寝るのは気が進まねえ。ましてなにか悩んでる様子だってのに、それはあんまり甲斐性がねえだろ。

「疲れてるはずだ。……寝ろよ。そこで眠り込まれちゃ、俺にはあんたを動かせない。化身して咥えていくって手もあるが、まさかスクリミルを呼んで来るわけには行かないだろ?」
「茶化すな。てめえの話を聞くまで寝られるかよ」

 先に立ち上がったネサラを睨んで言うと、ため息をついて寝台を見る。

「茶化してない。……しつこいやつだな。じゃあせめて寝台に行け。そしたら話を聞くだけは聞いてやるよ」
「いやに素直じゃねえか」
「俺も疲れてるんだ」

 そう言ったネサラの顔色は確かに白かった。ぐいと掴んで引いた手もいつもより暖かいままだ。まだ痛みがあるのかどうかはわからんが、熱は下がってないようだな。
 このままだと埒が開きそうもねえし、なにより無理に寝台に引きずり込んでも寝かさねえとこいつの方が参っちまいそうだ。
 ……仕方ねえな。
 ソファから立つと、ネサラも緩慢な仕草で立ち上がって俺のそばに来た。情けねえことにどうやら本気で心配させたらしい。
 ネサラに付き添われて寝台に腰を下ろすと、すぐに逃げちまいそうなネサラの腕を掴んで引きとめ、強引に横に座らせる。

「約束だ。白状しろ」
「俺は話を聞いてやるって言ったんだ。べつに白状しなきゃならないようなことはない」
「あのなあ」

 どこまでも頑固なやつめ!
 確かに、俺も疲れていた。だから気がつかなかったんだ。
 ネサラから感じる僅かな違和感に。

「いつも俺がおまえに甘いなんて思うなよ?」
「それは力ずくでどうとでもできるからって意味か?」

 冷ややかに笑ったネサラの声に、ぞくりと背中を辿るものがあった。
 なんだ……?

「あんたはいつもそうだな。俺より強いから、俺を好きにできる。口では優しいことを言っていても、その実俺の気持ちなんておかまいなしだ」
「ネサラ?」
「あいつらと……あのニンゲンどもと、どこが違うんだ?」

 昏い、底冷えのするような光がネサラの目に宿る。

「あんたも俺を支配したいのか?」

 憎悪といってもいい光を浮かべた切れ長の視線が、俺に向けられた。
 違う!!
 そう言ったはずなのに、どうしてだ? 声が出てねえ。
 ゆらりと、ネサラが立ち上がる。
 止めようとした腕はぴくりとも動かねえ。まるで見えない鎖でも巻きついたかのように、全身が重かった。
 なんだ…? なんだ、これは!?

「俺を玩具にして壊すのか? ……奴隷たちにしたように」

 なにを言ってるんだ…!?
 ネサラの様子がおかしい。
 隠したままの黒い翼が震えているような気がして、俺は必死に絡みついてくる見えねえ鎖を振りほどこうともがいた。
 なぜかはわからねえ。
 わからねえが、ここでネサラを離しちゃきっと取り返しがつかないことになる。
 それだけはわかったからだ。

「ネサラ…! 俺はそんなこと、しねえ…!!」

 振り絞った声には情けねえほど力がなかったが、それでも遠ざかろうとしていたネサラの背中が止まる。
 くそ、身体の中に妙な熱がたまってやがる。噴き出して来る汗を感じながら、俺はなにも言わねえネサラの背中に続けた。

「おまえが、大事だ。なにもかも俺のものにしてえ。それも…本音だが、それだけじゃ……」

 くそ、なんでこんなに息が苦しい?
 風もねえのに暖炉とランプの炎が大きく揺れる。その頼りない光に照らされたネサラが消えちまいそうで、俺は石のように重い腕を上げてネサラに手を伸ばそうとした。

「それだけじゃ、ねえよ…!」
「は……」
「ネサラ…!!」
「はははは…!」

 突然、ネサラが身を折って笑い出す。
 狂気じみた笑い声に冷たい戦慄を覚えたが、動くことはできなかった。
 しばらく笑い続けてようやく息を整えたネサラがゆっくりと振り返って、なにかを懐から出しながら言った。

「動けないだろ?」

 どうしてわかるんだ? …って、訊くまでもねえか。俺の様子を見りゃそんなことすぐにわかるよな。
 そう思ったんだが、奇妙な小瓶を見せながら続けた次のネサラの言葉に、今度こそ俺は目を見開いた。

「これがなんだかわかるか?」
「………薬?」
「そう、薬さ」

 さっきの不思議な匂いのする茶か!!
 くそ、しくじった。ネサラの様子がおかしいことには気がついてたってのに!

「さすがに図体がでかいだけのことはあるな。全部飲み干しやがって、普通の鷹なら一口か二口でばったり気を失ってるところだ」
「酒に強い分、毒が効きにくい体質だってのは…言われたことがあるぜ」
「まさか。毒なんかじゃない」

 身体の自由を奪う時点で毒じゃねえかよ。
 そう文句を言いたかったが、小瓶を見つめて睫毛を伏せたネサラを怒鳴る気が失せて呆れていると、ネサラは懐から出した三つの小瓶をランプのそばに置きながら続けた。

「あんたが飲んだのは、鷹用の薬だ」
「鷹用…?」
「こっちが獣牙族用。獣牙族の薬は分量を変えるだけで成分は同じだ。これが鴉用……これを使われると、手足が鉛のように重くなって動かせなくなる。意識も鈍るんだが、あんたはさすがに意志が強いな。もっとも、奴隷用のものならお楽しみがなくならないように調整してあるのかも知れないが」

 嫌な予感がする。淡々と言ったネサラに思わず乾いた唇を舐めたが、舌も同じように乾いていたから効果はなかった。

「もうわかるだろう? ニンゲンどもが、ラグズ奴隷に使う薬だ。あの村の薬師の家で見つけた」
「なんだと…!? おまえ、どうしてそれを…!!」
「言いたくなかったからさ」

 そう言ったネサラが自分でも意外そうに目を丸くして自分の口元を押さえる。
 言いたくなかった? それなのに、どうして今言うんだ?

「ちがう…ちがう。そうじゃない。俺は……」
「ネサラ?」

 様子がおかしい。
 首を振って頭を押さえたネサラの身体からぼんやりと蒼い光が立ち上る。

「ティバーン……」

 それから、まるで小さな子どもが泣き出す寸前のように苦しそうな顔をして、俺を呼んだ。
 応えてやりたい。応えなきゃならねえ。
 それなのに手も脚も動かなくて、俺はただ必死でネサラを見つめた。

「奴隷にされたラグズを……俺は大勢見てきた……」

 涙はない。
 それなのに、俺にはネサラが泣いているように見えた。

「猫も、虎も、中には獅子もいた。鷹も……鴉は特に多かった。あいつらは鴉を狩る必要がない。血の誓約で……自由にできたんだから」

 ネサラがゆっくりと足を踏み出した。俺の方へ。

「行き着くところは知れてる。支配されている間にどんどん娘が減ったから、キルヴァスから差し出すことはできないと言って国の娘はなるべく守ったが、奴隷の中で生まれた者は、どうしても……」

 その娘たちだけじゃねえ。奴隷にされた仲間たちを、助けてやりたかった。
 淡々と話しているはずなのに絶叫するような想いが伝わって、俺の胸が痛いぐらいだ。

「あんたが俺に強いるのは、それと同じことだ」

 それ以上はなにも言わずに黙り込んだネサラに、俺は違うと叫びたかった。
 なにが違うのか、そんなことは俺自身にもわからねえ。
 だが、違うだろ。そうじゃねえ!
 のろのろとネサラの視線が俺に向けられる。
 表情のない白い顔をただ見つめながら、俺は振り絞るように言った。

「同じはずがあるか…! くそ、そうじゃねえよ。俺は…ネサラ、俺は!」

 ふ、とネサラの口元に笑みが浮かぶ。
 こんな急場だってのに、その笑みは恐ろしいほど穏やかで、一瞬俺はネサラが冷静に戻ったのかと思った。

「同じこと、か……そうだよな」

 ようやく腫れが治まってきたばかりの指が、きっちりと着込んでいた白い長衣(ローブ)の腰帯にかかる。
 解かれた淡い色の腰帯がネサラの足元にわだかまった。

「こんな躰に、あんたが思うような価値はないが……」

 生々しい衣擦れの音を残して白い長衣(ローブ)もネサラの肩から滑り落ちた。
 残った下着にもためらう様子もなく指をかける。

「欲しいなら、くれてやるよ」

 最後に下着を脱ぎ捨てて、蒼い光が揺らめく漆黒の翼が現れた。
 炎に照らされた部屋の中、まるでネサラ自身が発光しているように白い躰が浮かび上がる。
 細いが無駄なく引き締まった、鍛え上げた戦士の身体だった。
 整った顔と、なだらかに続く首筋、しなやかな肩と腕。細い腰から長い脚の先に至るまで、ネサラの全てが俺の目に飛び込んでくる。
 疑うことなく完全に同じ男の身体のはずがどこか植物的な雰囲気がするのは、ネサラには男っぽい荒々しい匂いがないせいかも知れねえ。

「匂いが変わったな」

 うっすらとネサラが微笑んで、俺の喉が鳴った。
 ラフィエルの呪歌で鎮まったはずの衝動が一気に戻り始める。
 くそ…! そんな場合じゃねえだろうが!!
 ふわりと黒い翼が広がって、ネサラが近づいた。
 涼やかで、どこか森の気配のする匂いが強くなる。そこにネサラの欲情は一切含まれてねえ。
 それなのに早まった自分の鼓動が情けないにもほどがあるぜ!

「ネサラ……よせ…!」
「決めるのはあんたじゃない。悔しいだろう? 思い通りになんてさせるかよ」

 ネサラの目に、ぼんやりと蒼い光が灯っていた。おかしい。少なくともネサラは正気じゃねえ。
 ためらうことなく伸ばした手が俺の高ぶりを掴み、俺は目を見開いた。

「相変わらず、でかいな」
「意味を…わかってんのか…!?」

 思えば間抜けなことを訊いたもんだ。
 ネサラはなにも言わずに俺の腰帯に手を掛け、まったく動けねえ俺には構わず強引に着衣を解いていく。
 爺さんに脱がされることはあっても他人を脱がせたことなんざないだろう手つきはお世辞にも滑らかとは言えなかったが、それでも中心が張り詰めた下穿きに手を掛けられた時は必死に身をよじってなんとかネサラの手を避けようとした。
 そりゃ、やりてえよ。今だってこの手が動くならいつものようにネサラが嫌がっても、俺は強引に押し倒しただろう。
 けど、けどよ、違うだろ?
 どう見たって正気じゃねえネサラとそういうことはしたくねえ。
 まして肌を合わせる意味さえ知らねえようなネサラと、こんな形で遂げるわけには行かねえんだよ!

「喜べよ。あんたがしたがったことだ」
「ふざけんな、クソが…ッ!」

 突き倒されて寝台に転がる。部屋を照らしてるのは暖炉とランプが一つだけのはずなのに、おかしい。
 ほとんど裸になった俺の腹の上に座ったネサラがやっぱりはっきりと見えて、俺は目を瞬いた。

「……先が湿ってる。もう出るのか?」

 そう言って無造作に俺のそれを掴んだネサラが首をかしげて先端を触るが、俺は怒るべきか呆れるべきか一瞬悩んだ。
 色っぽいんだかガキっぽいんだかわからねえぞ!

「アホ、…そりゃただの先走りだ」
「じゃあ、まだ出ないんだな」
「ちょ…待て、こらッ」

 あげく、むんずとそんなモンを掴んだまま腰を上げたネサラがいきなり俺を跨いで、自分の中に突っ込もうとしやがって、俺は焦って身をよじろうとした。
 だが、当然動くことはできねえ。

「……く……」

 先端が暖かいネサラの中心に食い込んだが、それだけだ。眉をひそめて唇を噛んだ表情を見るまでもなく、痛みで固まったことがわかる。
 当たり前だ。女じゃあるまいし…って、女でも準備ができてなかったらそうだが、ましてそんなとこにいきなりこんなモンが入ってたまるか!

「い…てぇだろがッ、いきなり入るか…!」
「痛みなんか関係ない。……そういえば、前準備も必要だったか? どうするんだ?」
「あ、あのなァ……! 前準備もクソも…俺も痛ぇんだよ!」

 どうやら、そっちまで気が回らなかったらしいな。
 初めて正気に近い表情になったネサラが俺を見る。
 当然だ。尻も敏感だろうが、コレも敏感なんだよ。わかりきったことじゃねえか!
 それなのに、俺自身は爆発しそうに膨らんだままだ。明らかに発情しちまってる。
 こんな場面で、こんなネサラを前に、俺は発狂しちまいそうなほどネサラが欲しかった。
 ……皮肉だな。
 自由に動けねえからこそ、乱暴してねえだけだ。

「大体、おまえ…わかってて言ってるのか? 俺は、動けねえんだ。……準備もなにも…してやれねえだろがッ」

 そっちでやる気が失せてくれたらいいんだがな。
 元々入れるための場所じゃねえんだ。男を抱いたことも抱かれたこともねえが、受け入れる側が尻の中を洗ったりするってのは知ってる。
 ネサラが本気で望むなら、なんだってしてやるさ。中を洗ってようが洗ってなかろうが俺は気にしねえし、ネサラが気にするなら洗ってやる。
 まあどうせ俺がしてやるって言った時点で恥ずかしがって先へ進めねえだろうが。
 だが、ネサラは俺のそれを掴んだまま、浮き上がった血管の筋が珍しいように指先で辿って言いやがった。

「あんたからはなにもされたくないし、男同士の性交渉そのものは見たことがあるが、前準備は見たことがないからわからない。とりあえずナイフで裂けば入るはずだ」
「ば…ッ! できるか!」
「なにもあんたにやれとは言ってない。俺が自分でする。入らない時は、そうやって入れるんだろう?」

 淡々と言ったネサラは思い切り本気だ。
 ……不味い。俺の持ち歩いてる短剣を探す気になってやがる。
 発情でおかしくなりそうな頭の芯が一瞬で冷えた。
 違うと言っても信じなさそうだが、そんなことをして繋がられた日には、俺自身が俺を一番赦せねえ!
 回りを見て腰を上げかけたネサラに必死で手を伸ばすと、俺は白い腕を掴んでなんとかネサラを引き止めた。

「ちがう…」
「でも、奴隷はいつも」
「ちがう…! いいから、こっちに……来い」

 たったこれだけの動作に精神力が焼き切れそうだ。
 くそったれ、ニンゲンのド畜生どもが…ッ!!
 よくもそんな真似をしやがって!
 苦しい息をつくと、俺は焦れたネサラが動き出す前に言った。どうしようもねえ胸のざらつきに怒鳴りつけたい衝動を堪えながら。

「どうしてもか……?」
「…………」
「こんなことを…こんな…形で……」
「したがったのは俺じゃない」

 そうじゃねえだろ!
 俺が……欲しかったのは………―――。

「調合薬を…持ってたな」
「指なら治ってるぜ」
「ちがう。……すべりを良くしねえと、……入るもんも…入らねえだろ」

 そう言うと、ようやく意味が通じたのか、ネサラが頷いた。
 視線で追うネサラはやっぱりぼんやり光って見える。
 ……あいつが望んだことじゃねえ。
 俺に触られて、ドキドキすると言った。俺も同じだ。
 触られなくても…そうだと。そう言われた瞬間の自分の気持ちが滑稽なぐらいだ。
 首筋から汗が流れる。毒じゃねえと言っていたが、毒と同じだろ……。
 なんて様だ…!!

「もったいないな。油かなにかで良かったんじゃないのか?」
「……それが一番すべるからな」
「そうなのか?」

 本当かどうかは俺もわからねえよ。
 ただ、怪我をさせたくねえ。それだけだった。
 俺の一物はこの有様だが、ネサラはこれっぽっちも反応してない。悦いはずがねえよ。それなのになんで……。
 俺自身と、自分の後ろに調合薬を無造作に塗りつけたネサラの目が俺を映す。いつもと違う、淡く蒼い燐光を浮かべた目にはろくに表情がねえ。

「待ちやがれ。…中まで塗ったか…?」

 小首をかしげたネサラに、俺は本気で焦った。
 中に薬を塗りこむ時点で気持ち悪がってやめてくれりゃいいと思ったんだがな。

「なぜ中まで塗る必要がある? 入ったら同じだろ」

 淡々と言ったネサラがたっぷりと調合薬を纏いつかせた指で張り詰めた俺を握る。
 そこはもう、支えなんか必要ねえぐらい充分に固くなっていた。ネサラがひた、と薬に塗れた固いすぼまりに先端を押し当てる。
 そして、そのまま挑みかかってきた。

「…!」

 油分の多い調合薬を塗った分、さっきよりも明らかに深くめり込んで、ネサラの顔色が変わる。当然だ。
 指さえ使ってねえのに、いきなりこんなもんが入るはずがねえんだよ。

「あ…? い……ッ」

 先端が、恐ろしく狭い場所をこじ開けようとして痛んだ。とてもじゃねえが通れそうもねえ。
 無様に転がったまま見上げた先で黒い翼がばさばさと怯えるように空気を乱して、一瞬ネサラの目から蒼い燐光が消えた。

「ネサラ…!」

 俺の胸元に爪を立てたネサラの視線と俺の視線がぶつかる。白い額に大粒の汗が浮かび、唇だけで呼ばれた。
 だが、それだけだ。
 まるで侵食されるようにネサラの目にまた蒼い光が浮かび上がり、それと同時に翼の動きが止まり……恐ろしいほど無造作に、俺はネサラの中に導かれた。

「く、う、…っ、……ッ」

 きつい。
 目を閉じて俯いたネサラも苦しそうに声を殺したが、辛いのは俺もだ。
 もちろん受け入れたネサラほどじゃないだろうが、それでも一番敏感なそれをきつい肉にぐいぐいと締め上げられるのは辛いし、痛い。
 一度鎮めた発情期の熱が戻っていても、望まねえ躰の繋がりにはなんの喜びもなかった。

「ネサラ……」

 腹の上に雫が落ちる。
 涙かと思ったが、違う。痛みで噴き出したネサラの脂汗だった。

「こんな…ことが……」

 突き当たったはずの奥をなおも押し広げるように、ネサラが力ずくで腰を下ろしてくる。
 自分の内側を引き裂くように。

「したかったのか………?」

 違う!
 とっさに叫ばなかったのは、ネサラの目が俺を見てなかったからだ。
 ぼんやりとした視線は俺を通り越して、どこか遠くに向けられていた。

「……いたい……」

 ぽつりと呟く声があまりにか細くて、頼りなくて……抱きしめたくなった。
 発情期の狂気じみた熱はある。満たされたい部分が乾き切った感覚もだ。
 だが、それよりももっと深い場所から、怒りよりももっと強く湧き出た感情だった。

「ネサラ」
「どうして出さないんだ?」

 ぼんやりとした目で、そのくせ途方にくれたように訊かれて、ぎこちない動きでなんとか細い腰を支える。

「抜け。…痛いだけだ」
「終ってない」
「出ねえよ」

 こんな形で出せるか。
 そういう意味で言ったんだが、ネサラには意味が通じなかったんだろう。腰を支える俺の腕を掴んで、繋がったままで姿勢を正そうとする。
 悪いことにそれが刺激になって息が詰まった。
 自分の方こそ冷や汗でびっしょりになってるくせに、ネサラが不思議そうに俺の顔を覗きこむ。

「中で震えた。出そうか?」
「………」

 なにも言わないのが答えってのは、こいつが一番わかってるんだよな。
 もう一度ネサラが動く。ぎこちないなんてものじゃねえ。今だって引き裂かれそうに痛むだろうに。
 確かにやり方だけは知ってるんだろう。ネサラは俺の腹に手をついて、不器用に腰を使おうとし始めた。

「く、…! う、ぅッ」

 どっと鉄の匂いがあふれ出す。顔色は白いを通り越して蒼白だ。
 汗の匂いが変わった。まるで病気の時のような匂いだ。
 明らかに調合薬のせいだけじゃねえぬめりを感じるのに遅れて、傷ついたネサラの流す血の匂いに眩暈がしそうだった。
 こんな風にされたって出ねえよ。いくら発情期の熱に浮かされようが……気持ちがないことだけが理由じゃねえ。男ってのはそういうもんだ。

「ネサラ…もういい」
「うるさい」
「ネサラ」

 必死に腰を掴んだ手が汗で滑る。

「え…!?」

 繋がったまま、強引に化身の力を使うとようやく翼が出た。化身しちまえば性器の形も変わるから抜けるかと思ったが、よく考えりゃ図体が倍近くでかくなるんだ。
 下手すりゃ取り返しがつかねえほどネサラを引き裂くかも知れねえ。

「ど、どうして……?」
「悪りィな、やっぱり薬は効かねえ体質らしいぜ」

 途中で化身はやめたが、化身しかけたこと自体は良かったらしいな。さっきまでよりも声を出すのが楽になった。
 まだ思い通りにとは行かねえが、身体も動く。

「い…!」

 腹筋だけで起き上がって冷たい汗に濡れたネサラの中からそっと引き抜こうとしたが、それよりもネサラの締め付けがきつくて動けなかった。

「力を抜けよ」

 痛みに震えてるのは躰だけじゃねえ。翼もだ。
 小刻みに震える翼を撫でてもう一度言ってやるが、ネサラは息を詰めたまま首を横に振る。

「おまえが痛いだけなのに、俺が気持ち良くなるはずねえだろ。ゆっくり息を吸え」

 引き締まったネサラの腹が震える。
 引きつったように短い息をするネサラの頭が俺の肩に落ちて、俺は腰を抱いていた手をネサラの足の間に伸ばした。
 もちろん、無理にでも高めてやることで少しでも楽にしてやりたかったからだ。

「触るな…!」
「ネサラ! この…!!」

 そっちこそふざけるなと言い掛けた口が止まった。
 ネサラの目に浮かんでいた光の色が揺らぐ。
 なんだ…? これは……?
 絡みついていた見えない鎖が剥がれ落ちたように身体が軽くなる。
 だが、その代わり俺の腕から俺の意志が消えた。それだけじゃない。
 まるで目の前にいるはずのネサラが、幻になったように遠い。
 ――犯せ。
 躰の奥底から、獰猛な衝動が湧いてくる。

「ほら……同じ、じゃ……ねえか……」

 ズクンと、痛いほどそれが膨れ上がった。
 掠れたネサラの声まで遠い。

「つぅッ」

 確かに俺の意志で動かしているはずなのに、まるで人形かなにかのようにネサラの腕を掴んだ俺の手が、繋がったまま強引にネサラを引きずり倒し、容赦なく腰を突き込んだ。
 ネサラの口から鋭い息が漏れる。強引に膝立ちにさせた脚の間を伝ったのは鮮血だ。
 暴かれるはずのない箇所から流れた甘やかなほど濃厚な血の匂いが、より深く俺の意識を塗り潰した。
 労りや気遣いなんて欠片もない。
 俺の下で強張るだけの躰を一切省みることなく、逃げようともしないネサラを力ずくで押さえ込んで俺は腰を使った。
 寝台の軋む音も、ネサラの苦しそうな息遣いも遠い。
 なにを…やってるんだ、俺は……!?
 そう考えていたのも僅かな時間だった。
 ただひたすらに身勝手で暴力的な行為だ。だからこそ、原始の本能としか言いようがないほど強烈な衝動だけが俺を支配する。
 痛みに怯えるようにばたついて震える翼から、蒼を帯びた羽根が抜けて飛び散る。掴んだ長い髪を結んだ紐が解けて、蒼く浮かび上がる髪が白い背中とシーツを這って鮮やかに流れを変えた。
 身体の中心から、陶酔するような疼きが湧き上がった。敏感な肉を暖かな柔らかい粘膜で締め付けられ、包み込まれて、相手の奥深くに精を放とうとするそれは、明らかに快感だ。
 目が眩むほど、深い。深くて、熱くて………気が遠くなるような―――充足感。
 俺の暴力に人形のように揺さぶられているだけの躰には少しも快感がない。痛々しい汗と血の匂いに頭の芯まで支配されて、俺は堪え切れずにネサラの奥へ禁を放った。
 細い腰を掴んで無理やり引きずり起こしていた俺の手から力が抜けて、ネサラが崩れ落ちた。
 同時に繋がりも解ける。
 いっそう溢れて濃くなった血の匂いを嗅いで焦ったが、それも一瞬だった。
 のろのろと、浅い息を繰り返すネサラが俺の下から出て行く。これで用は済んだとばかりに。

「ネ、サ……」

 たった一度出しただけで収まるはずがねえのに、発情期特有の炎のような欲望が凍りつく。

「動くな」

 駄目だ。
 萎えた脚で寝台を降りたネサラに伸ばそうとした手が止まった。

「もうあんたにやれるものはない」

 なにを…言ってるんだ……?
 空気に蒼い魔力が溶ける。
 いつもネサラから感じていた心地良い、風を帯びた魔力だ。
 その魔力が、恐ろしいほどの強制力を持って俺の動きを封じていた。
 さっきまでどうしようもなく俺を煽っていた熱に浮かされていた意識が、ここではっきりと醒めた。
 信じられない思いで白く浮かび上がるネサラに視線を向けると、ネサラは壁に吊っていた自分の黒衣に袖を通しながら俺を見る。
 調合薬はまだ効いていない。痛いだろうに、ネサラは自分の脚を伝う血をちらりと見ただけで興味も見せず、身支度を整えた。
 見慣れた鴉王の装束姿だ。しなやかな長身を包む蒼い燐光が揺れた。
 違う、ランプか…?
 一度大きく揺れたランプの炎が消える。
 引きずられるように、暖炉の火まで消えた。
 カーテンも閉めたままだ。それなのに、見えるはずのないネサラの姿がはっきりと見えた。
 そして、今度こそ俺は息を呑んだ。
 一度閉じて、今度はゆっくりと開いたネサラの目に、淡く金色の光が浮かんでいたからだ。

「ネサラ、おまえ…!?」

 ほとんど羽ばたくこともなくふわりと浮いたネサラが分厚いカーテンを開ける。二重になった窓も。
 一気に冷たい空気が流れ込んできたが、そんなことはどうでも良かった。
 切れ長の双眸に宿っていた光が、飲み込むようにネサラの身体全てに広がったからだ。
 まるで鷺のような、けれど白鷺よりもずっと強い金色の光が。
 どういうことだ…?
 そりゃ、蒼鴉なんだから確かに鷺の血は引いているが、こんな馬鹿な……!!
 ネサラの神経質そうな手がぴくりと震え、のろのろと腕が上がって自分の喉を押さえた。まるで息が苦しいように。
 そのまま肩で息をして強張ったネサラが倒れちまいそうで、俺は死に物狂いで気力を振り絞って起き上がった。
 今…支えてやらなくて、いつ……!
 いつ、あいつを支えるつもりだ! 俺は…!!

「ネサ……!」

 身体中の感覚がおかしい。せめて、もう一度呼ぼうとした。
 だが、その前に泣き出しそうな目で俺を見たネサラの唇が震えて、風に溶けちまいそうな儚い旋律が流れ出す。
 黒い静寂を織るような……、子守唄だ。だが聴く者の魂にまで響くこれは、紛れもねえ「呪歌」だった。
 リュシオンたち白鷺の中性的で透明な声とは違う。確かに男の声だ。だが人の官能を揺さぶるような、柔らかく甘い歌声が、聴いたことのない旋律と金色の魔力を紡いで…ネサラを中心に、波紋のように広がっていく。
 どうしようもない切なさとともに広く…深く、染み渡るように。
 伝わってきた感情がネサラのものだったかどうかはわからない。
 ただ、胸が痛むような深い孤独と、悲しみと……。
 抱きしめてやりたい。
 ネサラを…? 一体、誰を?
 やめろ。謡うな…!
 止めたいのに、不甲斐なくも俺はもう指一本動かすことさえできなかった。
 急激に気が遠くなっていく。それがネサラの謡う呪歌のせいだってことはわかったが、とても気力だけで抵抗できるような生易しいものじゃなかった。
 どうして鴉のネサラが呪歌を……!?
 目を閉じると、ゆっくりと心地良い旋律が高ぶっていた俺の神経を鎮めて行く。
 まるでガキのころ、お袋に抱かれて眠ったころのように。
 歌声が消えた。
 眠りに落ちようとするまぶたの向こうに柔らかな金色と蒼い光が揺らめき、薄くて冷たい手のひらが頬に触れる。

「血の誓約に縛られてる間も、あんたは何回も俺に理由を訊いてくれたな。俺はずっと邪険にしてたのに。本当はうれしかったんだぜ。嘘じゃない」

 ネサラ? なにを言ってるんだ…?

「生きろって言ってくれた時もだ。俺は……うれしかった。後ろめたいのと同じだけ、うれしかったんだ。本当はいつだってあんたたちを裏切るよりも、俺のすべてで鳥翼の民のためにできることをしたかった。でも、なにもできなかった。あげくあれだけ酷いことをしておいて……そんな自分が赦せなかった」

 囁くような声が聴こえて、なにか柔らかなものが唇に触れた。

「今だって赦せないのにな……」

 なにを言ってるかさえもうわからねえ。
 俺よりも少し低い体温が遠ざかる。
 行くな……行くなよ。
 捕まえたいのに動けないまま、俺の意識はぽっかりと広がった闇に飲み込まれていった。
 足掻くこともできねえ。情けないことに、ここで俺の意識は完全に途絶えた。



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